【IDEAストーリー】第17回:動物と子供の笑顔が宝物!常設ミニ動物園・移動動物園ZOOKISS(ズーキス)/後編

コミュニティー

動物と子供の笑顔が宝物!常設ミニ動物園・移動動物園ZOOKISS(ズーキス)/前編

 

東武動物公園に就職!

松本
でも、その先生ってあれですよね。その場で電話してくれるんですか?
島田園長
その場で電話してくれました。

 

松本
すごい素晴らしそうなイメージですね。
島田園長
そうですね。ほんとに、日本の自然保護というものを作った、草分け的な先生で、非常に怖いんですけど、非常に温かくて、楽しい先生でした。

 

松本
それで、東武動物公園に戻って。
島田園長
18で入ることができました。

 

松本
それが初めての就職。
島田園長
そうですね。東武動物公園で約19年だったんですけど、20年近く仕事をして、38のときに、今の会社を立ち上げました。

 

松本
移動動物園っていうのは、20年くらい前、20年、30年前はあったんですか?
島田園長
ありましたね。移動動物園というのは、いろいろなパターンがあって、その昔は、いろんな大型動物までを含めた、大きなサーカスのようなスタイルで、動物園のない地域、例えば、山陰地方だとか、東北地方だとかを、巡業して回るような、そういうものが日本では一番初めですね。

あと、僕らが始めるころに、移動動物園と言われていたものというのは、町なんかから頼まれたり、または、商業施設から頼まれたりということで、ヤギやヒツジ、それから、ウサギといった動物たちを連れて、そこに子供たちを呼んで、触らせるというようなものでしたね。

 

松本
起業しようというのは昔からあったんですか?
島田園長
あまりなかったですね。考えてなかったです。

 

松本
何かきっかけがあったんですか?
島田園長
動物園時代に、動物園の成長とともに、だんだん、その特殊技能が必要ではなくなってくる感じがありまして、そういうのはどういうことかと言うと、初めの動物園ができたころというのは、いろんな事件が起こるわけです。

 

松本
事件?
島田園長
例えば、動物が逃げちゃったりだとか、そういったものに対して、その動物を捕まえる能力だとか、動物のことをよく知っている、人より何かできるということが偉かった時代があったわけですね。

そのころ私は有頂天で仕事をしていたわけなんですけども、それが動物園というものが安定してくると、動物園のスタッフなんですけども、だんだんそれがサラリーマン化してきて、その特殊な技能よりも、真面目に普通に言われた通りのことをこなすことのほうが重点な仕事になってくる。

 

そうすると、私の生き方が良くなかったんですけど、お客さんとの話とかも好きだったので、結構、ファンの方とかいっぱいいたので、別に俺、役に立っているからいいじゃんみたいな、子供みたいなわがままなことを言ったり、やったりしていて、会社的には、いい会社員ではなかったんですね。

飼育係という職人の世界では、日本でも結構な有名なほうにいったと思うんですけども、でも、東武動物公園株式会社という会社員としては、褒められたものではない。

 

なので、このままいくと、良くないな、自分のなかでも、だんだん分かってきて、そうすると、じゃあ、どういうふうにしたらいいのかな、自分のなかで理想とする動物園像というのがあって、そういったものに対して、東武動物公園にもこういう動物園にしていったほうが、この先いいだろう、こういう企画、こういう展示の方法、そういったものをやっていったほうが、このあと、動物園の経営にいいんじゃないのみたいなことを、いろいろ提案したりだとか。

その当時、今はちょうど、もうちょっと冷めてきましたけど、旭川の動物園、だいぶブレイクして人気になりましたよね。ああいったものの源流のウェーブというのは、そのころすでにあったんですよね。旭川だけではなくて、日本中のいろんな、そういった新しい展示だとか、新しい動物園って、なんだみたいなことを、飼育係のレベルでいろいろ考えて、みんな、それぞれアメリカ行ったり、ヨーロッパ行ったりしながら、こういった動物園って楽しいよねとか、こんな動物園作れたらいいよねみたいなことを、みんなが言い合っていた時代が、ちょうど20年とか、そのくらい前の話です。

 

その当時、動物園という業態が今みたいに人気がなくて、昔、動物園というのは、やはり娯楽施設の一つとして人気がある施設だったんですけど、ちょうど20年くらい前というのは、動物園、冬の時代で、あまり人気なかった。

東武動物公園のなかでも、「島田が言っていることなんか、お前いくらかかるんだよ。そんな設備投資するんだったら、ジェットコースター作ったほうが全然いいよ」っていうかたちで、僕の言っていることとか、全然受け入れてもらえなかったんですね。

 

そういうことを実現するには、じゃあ、どうしたらいいのかなっていったときに、偉くなるしかないんだなと、今まで好き放題、さっきも言ったように、やりたい放題やっていたので、どう考えても、これは、今からレールを乗り変えて、出世路線にいくのはなかなか大変だろうと、やっても結局今までの仲間の足を引っ張って、自分が上がっていかないと、何人か上にいるから、こいつらを引きずり降ろさなければ、俺は上に上がれないし、そんなことをしても楽しくないよねみたいなことを考えて。

そうしたら、じゃあ、やれるのは何かというと、自分で動物園作っちゃえばいいんじゃないみたいな。ただ、よく考えたら、そんな資金力はどこにもなかったんですよね。

 

じゃあ、何ができる。自分ができるかたちで、自分が理想としているものっていうのは、アメリカの動物園であったり、旭川の動物園みたいなものもそうだけど、自分がやって楽しかったことというのは、それだけではなかったんですね。

というのは、東武動物公園時代に、ゾウだの、サイだの、ライオンだのという、いろんな動物たちを歴任してきて、最後のほうに回されたのが、動物との触れ合いコーナーだったんですね。その当時、触れ合いコーナーというのは、あまり一流の飼育係が行くところではない。どちらかというと、もう定年過ぎたおじいさんとか、あとはその当時、今はまったく違いますけど、その当時は、アルバイトとして、正社員にはなれない人の女性のスタッフとかがお客さんの子供たちに対して、触れ合いをやるようなところで、あまり動物園的な技術、動物の知識というものを持っている人が少ないところなんですね。

 

そこに回されまして、そこのリーダーとしてやったわけなんですけど、東武動物公園として、ある程度、そういったものに力を入れていたんです。その当時も。やはり、30分刻みで、幼稚園の子が、200人とか、300人で来るわけですよね。それを30分刻みで、動物の説明をして、ちょっと触れ合いをして、どんどんどんどん、ところてん式に流していくみたいなこともやっていたんです。

 

でも、そのなかで、やっぱり言うことをきかない子供とかもなかにはいるわけですよね。その子供、ちょっと僕が、「なんで、そんなお前、言うこときかないんだ」ということで怒ってしまったことがあって、その子と最終的に仲直りもできない状態で、時間が短かったので、その子帰っちゃったんですけど、そのあと、夕方、掃除をしていたときに、動物園の遠足のしおりってあるじゃないですか。

その子、今日怒っちゃった子のしおりが、掃除したら落ちていたんですよ。そのしおりに、バスの絵とか書いてあるんですよね。もともと。後ろのほうとか、歌う歌とかいっぱい書いてあって、持ちものとか、いっぱい書いてあるんですけど、そしたら、そのバスの絵とかに色塗ってあるんですよ。

 

「あ~、こいつ動物園に行くのに、前の日とか嬉しくて、色塗ったりしたんだな」とか思っていて、それなのに正しいとか、正しくないとかではなくて、でも、楽しいという心を、楽しくない1日にしてしまったんじゃないのかな。

 

前の日とか、前の前の日とかからずっと、バスを塗ることさえ嬉しくて、ワクワクして来た、その子の1日を嫌な日にしてしまったんじゃないかなと、すごいそれで落ち込んでしまって、動物園で人と接することというのは、正しいことだけを振りかざすことではないんだなというのが感じたこと。

そんな目で見ているときに、今までは、俺様はキリンの飼育係でとか、俺様はゾウの飼育係でみたいな意識で、お客さんのことなんか、あまり見たことなかったんですね。

 

ちょっと離れて、動物園のお客さんのことを見るようになってから、今度はお客さん、例えば、ゾウのところで、5分くらいしかいないんですよ。長くてゾウさんの歌が終わるくらいですよね。「ゾウだ、大きいね、すごい」とか言って、「大きいうんち」とか言って終わっていくんですよね。

ところが、ヤギとか、ヒツジとかに、今度いたずらで、その辺の草を抜いて、あげたりとかしているのに対しては、1時間とか、2時間とかいたりするわけです。

 

なるほど、動物園の持っているニーズっていうのは、大きな動物や、すごい動物がいるということも大事ですけど、それだけではなくて、その動物に何かしたい、動物との接点を持ちたいというニーズがこれは結構あるなと、それって、今ちょうどそういった現場にいたので、これをもっと、じゃあ売りだすという方向性もあるよねということで、またそれもそれで、会社に提案したんですけど、そこもいまいち通らない。

 

そうか。じゃあ、周りを見ましたところね、さっきも言ったように、動物、移動動物園という名のもとにやっている会社は、あまり知識ないし、あまり衛生面とか考えていないし、コンセプトがそもそも、なんだそれみたいな、動物いりゃあいいとか、触れりゃいいじゃなくて、動物のすごさみたいなもの、楽しさみたいなもの、もっと前面に出して、いっぱい楽しんで、ちょっと身になるもの、へえー、そうなんだみたいなことも含めてやって。

最終的に、動物や科学みたいなものに対しての、小さな芽みたいなものを植え付けてあげることが、僕と話したことによって、そういったことができれば、そういう仕事いいんじゃないかなって、そのころに思って、突然、よし行くぞっていうかたちで起業をしました。動物園辞めるときには、だいぶ怒られましたけどね。西山登志雄園長とかに。

 

 

松本
そのとき結婚はされていたんですか?
島田園長
結婚はしていました。子供二人いて。

 

松本
奥さんの反対とかなかったですか?
島田園長
奥さんもいけいけだったので、なので、奥さんの反対はありませんでした。

 

松本
じゃあ、そこからスタートした。
島田園長
そうですね。あとは、目論見のなかでは、ちょうどその当時、子供も二人まだね、幼稚園生と小学校入ったばかりだったんですけど、ちょうど両方、私の父親が脳こうそくで倒れ、妻の父親が胃がんで倒れみたいな時代だったので、お金がなかったんですね。起業してお金を作って、二人を早く楽にしてやろうという目論見もありました。これは見事に外れましたけども。

 

動物もいない、お客さんもいない、スタッフもいない何もないゼロ状態からスタート!

松本
最初、資金はどれくらいから始めたんですか?
島田園長
資金はまったくなくて、退職金が300万入ったので、それを元手にしました。あと、国民金融公庫。ここに企画書を書いて、そこからは、800万くらいかな。そのとき、借りることができまして、それ合わせて資金にしました。

 

松本
企画書としては、移動動物園をやりたいですみたいな。
島田園長
そうですね。その当時は、常設の触れ合い動物園の展開というものが、まだなかったので。

 

松本
面白そうですね、みたいな感じで、すんなりいった?
島田園長
すんなり、そうですね。何回かやりましたけど、そんなに絶対出ませんみたいな感じはなかったですね。
松本
じゃあ、その資金を元手に最初どんなふうに進んでいったんですか。最初。何から始めたんですか?お客さんもいないですよね?
島田園長
お客さんもいないです。

 

松本
動物もいないですよね?
島田園長
動物もいない。

 

松本
スタッフもいないわけですよね?
島田園長
スタッフもいないです。

 

松本
一人から?
島田園長
一人からですね。なので、ちょっと離れてしまったんですけど、千葉県の野田市というところに、動物を飼うための土地を借りまして、ほんとに草ボーボーの荒れ地だったんですけど、そこにユニットハウスって、よく工事現場にあるやつを買ってきて、それを置いて、そこから毎日地面を綺麗にすることと、穴を掘って、丸太を差し込んで、柵を作ってというところか始まりました。

 

松本
それは資金で最初用意した資金で、動物用意するとか。
島田園長
あとトラックを1台、中古のボロボロでしたけど、買いました。

 

今までは東武の島田さんでしょ。あんた、島田さん、たったの一人やんけ!

松本
最初、スタートするときに、会社員時代は、東武動物公園の看板というか、あるじゃないですか、個人で動物園をスタートするとなると、どういう信用とかもありますけど。
島田園長
これはね、初め、びっくりしましたね。やっぱり動物園時代に、その例えば、動物のご飯、飼料を取り扱う業者さんだとか、それから、資材を取り扱う会社さんとか、いっぱい割とみんな仲良しだったので、独立しても、ツーツーでそんなもの入ってくると、軽く思っていたんですね。その実際に辞めてみて、

 

島田:「実は、こういうわけでさ、またお願いしますよ。とりあえず、材木30本、これまた持ってきてね~」みたいな言い方をしたら、

業者:「ちょっと待って、島田さん」、

 

島田:「何」、

業者:「島田さんね、お金あるの」、

 

島田:「お金だから月末に払うよ」、

業者:「どうやって払うんだよ、仕事もないのに、そんなので口約束なんてできないよ」、

 

島田:「なんで今まで良かったじゃん」って、

業者:「今までは東武の島田さんでしょ。あんた、島田さん、たったの一人やんけ」みたいな話になって、

業者:「先にお金をくれないと、当然ものなんか出せないよ」、

そういうものなの。えーみたいな。それが他のことでも、例えば、一番初めに仕事を受けたんですね。その仕事は、知り合いの水族館に、水族館でイベントやるときに、今で言う、ウーパールーパーですね。これが足りなかったので、ちょっと集めてきて、納入してくれないかという仕事があって。

これももともといろんな知り合いがそういった業者さんにいたので、そういった人たちに仕事として、お願をしたんですけど、そしたら、やっぱり、「いや何言っているの、島田さん、先にお金なくちゃ買えないでしょ」みたいな。

 

今まで友達として当たり前に付き合っていたし、自分としては、上から付き合っていたつもりは、まったくなかったんですけど、逆に、向こうが下から来るものに対して、逆に、普通だったら、業者さん扱いをして、嫌なことを言うような人たちも結構いたんですけど、そういうの僕嫌いだったんですけど、逆に、自分としては下からら付き合って、一緒に友達みたいな感じで作ってきたネットワークだと思っていたんですけど。

ところが、それがまったく向こうにしてみると、そんな意識はなくて、東武動物公園の島田だから、仲良くしていたんだよみたいな、そういう現実がきたときに、やっぱり今までそんな東武という看板にね、守られていたんだな、裸の自分って、こんなもんかっていうのは強く感じました。

 

松本
そこから、軌道に乗った、きっかけは?
島田園長
まずやはり、初め、仕事ないですから、そういった動物や水族館の動物の輸送だったり、そのイベントのちょっと端っこの手伝いだったりということから始まったんですけど、それは全然、商売としてはあまり成り立たない業態だったので。

商業施設、こういったところに、動物との触れ合いをしませんかということで、直接営業に行きました。これで、仕事を拾ってくれたのが、市川にあるコルトンプラザという、そういう商業施設があったんですが、そこが一番初めですかね。

 

それをやるのに、いっぱい動物、その前には仕入れて、調教して、持っていったんですけど、そこでの仕事を認められて、また呼んでいただくというようなこと。

 

それから、あとは、幼稚園にホームページを中心にしたんですけど、それでも、幼稚園に電話して、触れ合い動物園を始めますと、こういった特徴がある動物園なのでいかがでしょうか、特徴としては、とにかく衛生管理と、動物の調教と、それから、スタッフも当然ついていきますので、安心安全であると、その当時、私が幼稚園に行って、お話をしてきますというような、子供たちにまず僕が行って、動物の話をして、そのあと移動動物園がやってくるみたいなスタイルだったんですね。

なので、お話だけでもさせてくださいというところから入っていったので、一度入りこめば、あとはどんどんどんどん、それが口コミで広がっていくので、うちもうちもというかたちで、一時期は、もう、そうですね、でも、80件くらいは幼稚園だけで、毎年やっていましたね。

 

松本
80件、年間で。じゃあ、地味に営業やっていったという感じなんですかね。
島田園長
そうですね。活発には、私、一人で全部やっていたので、活発には動けなかったんですけど、でも、行けば、必ず、何か取ってくるぐらいの感覚はありました。

 

TVチャンピオンの「おもしろ動物王選手権」で準優勝!

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松本
ホームページ見させていただいて、選手権みたいなありましたよね。TVチャンピオン、おもしろ動物王選手権で賞を取られたと。

 

島田園長
これは準優勝で、ほんとはね、向こうのミスがあったので優勝できたんですけど、準優勝になっちゃいましたけど。

これは動物の知識の問題でしたね。だから、いろんな動物の映像をぱっと出てきて、その動物がなんであるかということ、例えば、初め、小さい点みたいなとこがだんだん大きくなって、最後は動物のかたちになるんですけど、それをいかに早く動物の名前を当てるかとか、そういう問題とかですね。楽しかったです。

 

 

松本
動物を語らせたら、右に出る人はいないみたいな。
島田園長
そのぐらいの自信はありましたね。

 

松本
あと、日テレ「世界一受けたい授業」、これの講師としても出演した?
島田園長
これも出ました。これは、スタジオに移動動物園に連れていく動物を連れていって、触れ合いのちょっと説明をしたりとか、触れ合いって何みたいなことを、ちょっと話したりしましたけど、これはね、あまり面白くなかったですね。堺正章さん、あまり動物好きじゃないみたいで、あまり突っ込んでくれなかったので、芸人さんばかり前に出てきてね。

 

松本
芸人さん誰でしたっけ。くりーむしちゅーとかでしたっけ。
島田園長
そのときいたのはね、くりーむしちゅー、メインがそっちで。ゲストに、ワッキーとかね、あの辺がいましたね。

 

仕事が楽しくてしょうがない!

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松本
そういった何十年も動物と触れ合ってきたわけじゃないですか。感じるものっていうのがなんかありそうな感じするんですけど、コミュニケーションだったりとか、生命だったりとか、島田さん的に何十年と触れ合ってきて、教わったことというか、そういうものってあったりしますか?
島田園長
基本的に他の仕事をしたことがないので、仕事的に何かと比べるという感覚はまったく分からないんですけど、ただ、このずっと動物と付き合ってきて、いまだに、動物が楽しくてしょうがないというのが一つですね。

 

松本
いいですね。楽しくてしょうがない、仕事が。
島田園長
楽しくてしょうがない。人に自分の動物の説明をしたりするのも、当然楽しいですし、別に人いなくても、自分でその動物と一緒にいたりとか、このごろだと、動物の何かこいつ何を自分に訴えているのかなみたいなのを感じたりだとか、考えたりだとか、これは、変な人の話みたいですけど、でも、動物たちが何かを言っているんですよね。

 

それを受け止めてあげられたりとかすることが無情の楽しみになっていますね。例えば、昔だったら、ゾウに自分の言うことを聞かせるだったり、サイの背中に乗って、みんなの前でわーっと言われることが楽しいとか、嬉しいとかという、人からどう見られるかみたいなところもあったんですけど、最近はそんなことよりも、もっと別にヤギでもウサギでも、なんだみたいな動物でも全然良くて。

でも、そんな動物たちの心のなかみたいなものは少し見えたりすることが、すごく嬉しいですね。ちょっと話しの趣旨とはズレてしまうかもしれませんけども。

 

 

松本
動物から教わったことというのも、結構ある。
島田園長
確かに、動物から教わる母性であったりだとか、そういったものを口にするのも簡単なんですけど、もっともっと動物って、実は、人間みたいに感じていて、考えていて、それを人間の側がその表現を受け止めることができていないだけなんじゃないのかなという、そんな感覚に最近持っていまして、そういったものを今後もどんどんちょっと追求していきたいなというふうに考えています。

 

松本
動物って生きることに真剣だったりする感じなんですか。
島田園長
そうですね。そういったものはあります。特に野生の動物には、その辺のところが非常にシビアなので。

例えば、シマウマとか、そういうのって、みんな同じように走れるんですよね。逆に、なぜかと言うと、ちょっとでも、みんなより遅いやつは食われてしまうから淘汰されてしまう。なので、いかにその自分が目立たないようになるかというようなこと。

または、ちょっとでも弱みを見せると、そこを狙われてしまう。なので、やはりそれは今の仕事というよりも、動物園の動物飼育員時代のほうが強く感じていましたけど、ほんとに野生の動物はギリギリまで弱みを見せない。

なので、弱みを見せたときには、もう手の打ちようがない。だから、死ぬまで立っているとかね。そういうことで、どの段階で、ある程度、具合が悪いのは分かっていたんですけど、でも、ちょっとでも手を出すと、向こうも本気でかかってきますので、どの段階で取りにいこうみたいなことで様子を見ていて、さあ、やるぞと言って、その動物を捕まえて、それは、セーブルアンテロープという1メートル50くらい角の生えている、かなり力の強い動物だったんですけど、そいつを治療しようと思って、なかなかそんなことできない。いざやろうということで、私が
その角をばっと持って、抑えたときに、その動物、そのあとパタって倒れちゃったんですね。そのまま息を、心臓止まってしまったんですね。

 

 

松本
押さえたら?
島田園長
そう、結局その状態まで、僕らは死にそうには、まったく見えなかったんですけど、そんな状態になるまで、やつらは虚勢を張っているわけです。なので、やっぱり弱そうに見えるとか、具合が悪そうに見えるということは、当然、他の肉食動物から狙われるわけですから、ギリギリまでそういうものは見せないんだなという、生きようとする力の強さというか、そういうものは動物から感じましたね。

 

松本
起業とか、人間が生きるという部分にも、通じる部分もありそうな。
島田園長
そうですね。そういった生きようとする強さ、あとは、生まれてきた子供たちの強さというものはすごいですね。

生まれてきた子供って、すごいひ弱で小さくて弱いんですけど、それでも、生まれてから3日目くらいまでのことというのは、割と順調に物事が、例えば、すぐにおっぱいを飲めて、すぐ温かいところに行けて、すぐ身の回りが安全でということは、野生の状態とか、普通あまりいないですよね。

 

なので、でも、そんな毛も生えていない、目も開いていないようなやつらでも、その間、いろんなことに耐える力を持っているんですね。

なので、3日目くらいまでは結構、何かあっても頑張れる。でも、それ以上になってくると、今度は同じような試練があっても、今度そこに耐えられなかったりとか、あんなときに耐えられたのに、これは耐えられないのかみたいな。そういう動物の持っている面白さみたいなのはありますね。そこから先は自分の力がないと生きていけないみたいな、そういうのは感じます。

 

御社の今後の事業展開、仕事上での夢でもいいんですけども、教えて下さい

島田園長
最終的に作りたいものは、動物と共生できる家みたいなものなんですね。イメージとしては。そこには、当然、私が飼っていて、いろんな現場に行っている動物たちが年を取ったり、または、仕事がないときに帰ってくる。当然、そのうちのスタッフたちもそこに故郷のように帰ってくる。

 

またそこに、一般のお客さんであったり、または、障害を持っていて、ゆっくり自分たちのペースで動物たちと触れ合うことができない。例えば、障害持っている子が乗馬コーナーにならんでいても、そのうち我慢できなくなって、ぴょんぴょん飛び跳ねちゃって、暴れちゃったりとかして、お母さん、ごめんなさいと言いながら、その席離れたりとかいうことを見たりしていると、こういう少し、お金がかかってもいいから、自分たちのペースで、そういう動物との触れ合いとかいう時間、または家族の時間みたいなものを作れることができたらいいのになって、僕のなかで勝手に思っているんですけど。

そういうサービスのできる場所、別に、特別、障害の方を目的としているわけじゃないですけど、そういう家族単位であったりだとか、少人数でゆっくりと動物とゆっくりしたいみたいな、そんなものを併せ持つような施設を最終的には作りたいなっては思っています。

 

起業をこれから考えている方々にメッセージをお願いします。

島田園長
起業を考えるということは、まず僕が思うのは、一番いいのは優秀なサラリーマンでいることが一番いいだろうと一つは考えています。

なぜかと言うと、起業するということは、自分が自由な時間を得ることができます。その自由な時間を得る。自由なお金を得るのと当時に、まったく誰の信用も、何も初めはないわけですから、うまくいくかどうかは分からない。なので、よほどよく考えてから、起業はするべきだと思います。

もう一つは、起業するに向かって、どのような武器が自分にあるのか。私も当然、失敗したらどうしようというような、あまり考えてなかったんですけど。でも、その代わり、なんでもやれるという自信がありました。

 

例えば、トラックドライバーであったり、大工さんであったり、そういったことで、何をやっても、食っていく、どんな目に遭っても、別に、ちょうど女房も子供もいましたので、あれじゃ食えない、これじゃ食えないじゃなくて、最悪なんでもやって食ってやるという、そういう意識はありました。

なので、そこがもしないと、1個崩れたら、そこから先どうするんですかということのなかで、自分がどこまで頑張れるかというところの強さは持っておくべきだと思います。それなしにの起業というのは、僕はやめたほうがいいんじゃないのって思います。

 

 

松本
本日のゲストは、株式会社ZOOKISS(ズーキス) 園長 島田直明さんでした。ありがとうございました。
島田園長
どうもありがとうございました。

 

 

 

起業におすすめな本/社長の「1冊」

ドリトル先生ものがたり

ドリトル先生は動物語が話せる。魚語も話せる。特別な能力には違いないが、かといって奇想天外かというとそうではない。先生はちゃんと動物たちから「学習」したのだから。最初は同居人(?)のオウムのポリネシアに手助けしてもらい、一語、また一語。誰にも横柄な態度はとらず、誰とも仲良しになり。かくして人間のお医者さまだった医学博士、ドリトル先生は獣医に転身。オウムのポリネシア、アヒルのダブダブ、犬のジップ、フクロのトートー、ブタのガブガブ、白ネズミといった役者ぞろいの動物たちと世界中を旅し、月にまで行ってしまう。せせこましい人間の物語よりよっぽどおもしろいし、「おもしろいことがわかる動物のほうが人間より高尚」と言い切る人間離れした先生が最高に魅力的。

「ドリトル先生は動物語が話せる。? そんなばかな…」と思ってしまったあなた!自分の脳を想像力を、もっともっと自由に!

 

株式会社ZOOKISS(ズーキス)  園長  島田直明

≪設立年月日≫
2002年12月25日(創業2000年1月)

≪事業内容≫
ミニ動物園企画運営 。動物キャラバン隊(移動動物園) 。公営動物施設委託管理運営

≪企業理念≫
<動物と子供の笑顔が宝物!> 人と動物が楽しく、優しく、ふれあえる「場」を創造する。

※TV/雑誌/新聞等取材多数。

 

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