【IDEAストーリー】第4回:日本で唯一「旅行」を扱わない旅行会社

コミュニティー
MATSUMOTO
こんにちは。イデア・クリエイションの松本泰二です。
IDEAストーリー

起業家のストーリーを追体験してもらおうという無料のインタビューサイトです。

このサイトでは、これから起業に興味のある方に向けて、成長のサービスを展開されている方、面白いサービス、商品を出されている方、各分野の実績を出されている専門家の方々にインタビューということで、各スペシャリストの方にお話を伺ってしまおうというような内容で、毎週お届けしています。

 

本日のIDEAストーリー。ゲストは、地球探検隊 代表取締役隊長 中村伸一さんです。中村さん、宜しくお願い致しまします。

中村隊長
宜しくお願い致します。

 

自己紹介をお願いします。

中村隊長
日本で唯一、旅行を扱わない旅行会社。

旅行というのは、誰かに連れていかれる受け身なもので、旅というのは主体的にもっと動く、自分で考えて判断して行動する。これが旅だと思っているので、旅しか扱っていない日本で唯一の旅行会社。

旅行会 社というのも、ちょっと実は最初から抵抗があって、20年やっていても、いまだに抵抗が。旅行会社なんですねって言われたり、旅行代理店なんですねと言われると、あんまりそういうつもりでやっていないというのが、最初 から20年変わらないところです。

 

MATSUMOTO
一緒にしないでみたいな感じですか(笑)
中村隊長
どうしても独自の路線を歩んでいくと、旅行会社のくくりをこえちゃっているところに、うちの価値があるんじゃないかというのが、思っているので。

 

MATSUMOTO
起業されて20年ぐらい。
中村隊長
21年目ですね。3月で20周年になったので。20年と半年くらいですかね。

 

起業前は何をしていたのか?

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中村隊長
ずっと同じようなことをやっています。33年間。その33年前にやっていた多国籍ツアーのトレックアメリカというのが、独立したときのうちの主力商品なので 、いまだに扱っているので。

 

MATSUMOTO
多国籍ツアー。
中村隊長
外国人と一緒に英語で行くツアー。最初に33年前に出会ったときに言われた面接のときに、相手の会社にどんなことやっているんですかと聞いたときに、例えば、アメリカ大陸を世界中から集まった若者と一 緒にキャンプとか、テント張りながら横断したり、1周したりするのと言われたときに、すごい衝撃で、まったく知らなかったので、きっと多くの人に知ってもらえれば、もっと行くよ。自分がもし学生のときにそれ知っていたら行った かなという。もうちょっと広報活動に力入れてくれないかなと思ったのが、一番最初のきっかけで。

それが一番自分にもビビっときたとっかかりというか、そればっかりずっとやりたくて、もっと知ってもらいたくてというのが、ずっとその13年間この起業するまで、それをもっと知らしめたいという、その商品自体の魅力と、そこで出会ったその人がどう変わっていくのかということに、すごい興味があって。

 

昔から、起業したいとか、社長になりたいと思っていたのか

中村隊長
まったく違いますね。たまたまいろんなとこ落ちまくって。

 

MATSUMOTO
落ちまくって。
中村隊長
受けても受けても、ちょっと生意気な少年だったので。受からないんです。面接とかにも行かないぐらいの。質問しただけで落っことされちゃうみたいな、なかなか 就職するのに苦労したタイプなんですけど。

 

MATSUMOTO
ちょっとヤンチャだったんですか。
中村隊長
そうですね。観光専門学校にいっていたときに、生徒会長もやっていたんですよ。生徒会長ってみんなある意 味、それなりに名前の知られた旅行会社に入ったんですけど、そういうとこから見ると、「あ、この子合わないな」 と思われちゃったと思うんですよ。

だいたい全部、駄目駄目と落とされまくって、受からないんですよ。たまたま拾 ってくれた会社がこっちからも質問していいですかと聞いたのが、今のことで、そこでビビッときて運命を感じて、そこに入りた いと思ったら、そこが拾ってくれてそこからですよね。だから、そのとき就職試験のときには、いつか独立したい なと思っていないこと言っちゃったりしたんですけど。

だんだんだんだんお客さんが自分についてきているという感覚が分かってきて、10年以上やっていると。どちらかというと、お客さんから独立してくださいと。

 

MATSUMOTO
周りのお客さんから言われたということですか。
中村隊長
そうです。あと家族からも、ちょっと先が心配なので、どうせなら、自分でやったらという

 

MATSUMOTO
逆ですね。

 

中村隊長

普通のパターンとまったく逆ですね、うちは。めちゃくちゃな会社だったので、それで本にも会社名出していないんですけど。

例えば、前年比の3倍くらい売上て、じゃあ今月から給料ゼロねとか。意味が分からないんですけどと言うと、たまたま商法が変わって、1000万の資本金がないと駄目と、うち会社200万円で立ち上げた会社だから、株式会社が有限会社になる前だから、800万増額しないといけないから、あなたの給料ゼロねと言われて、意味が分からない、ゼロという。

翌月も、今月もゼロだからとか、半年くらいゼロで、いい加減にしてくれと言ったら、定期くずせばと逆ギレされて、もう意味分からない会社だったんですよ。当然、結婚もしていたので、妻としては、もういい加減にしたらという。

 

 

MATSUMOTO
奥さんは、隊長の、独立した方が絶対いけるよと可能性を信じて。

 

中村隊長

ほとんど任されていたので。会社の売上はほぼ自分が作っているという自負もあったし 、実際そうだったので、社長ほとんどいなかったですから。

自分にとっては、これをプラスにどうやったら持っていけるんだろうということばかり考えていたので、こんな状況でも、こんな上司だから辞めるとか、人のせいにしたくなかったんですよ。だから、これを好機を捉えて、チャンスと捉えて。ある意味、人の 会社でいろんなことが実験できれば、自分で仮説を立てて、それが検証できれば、自分の役に立つだろうと。

少なくとも成長はできるし、学びはできるだろうみたいな、今でもそこの部分変わらないですけど。やっぱり目的を成長の学びにすると、どんなことも楽しくなっちゃうというか、学ぶというか、そんなふうなスタンスでずっと仕事していたので、それはお客さんに分かったと思うんですよ。

 

ちょっと会社的に変わった社長だと、友達に紹介しづらいので、「あなたがトップになれば、いっぱいお友達紹介できるんだけど」みたいに言われたんですよね。お客さんから、うちとしても、稼いでいたの分かっていたので、会社にお金がなければ、給料でなくてもしょうがないなとうちの妻も分かったと思うんですけど。かなりあったんですよ。それは自分でもちゃんと計算できていたので。これだけ稼いで、これだけ毎日終電で帰って、「なんで給料がゼロの額が何ヶ月も続くの」みたいな。

だから、まったく普通の人が起業したいと言ったときの多分、両方とも違うパターンなんじゃないかなと、家庭も、お客さんからも、独立してすごく大きな看板、会社の看板があって大きな会社だと、そこの看板でできているという感覚が分からないで独立しちゃうと結構失敗すると思うんですけど。まったくそうじゃなかったので、お客さんが会社についているんじゃなくて、自分についているんだというのが、一番だったかな。

 

7000万が250万に!

MATSUMOTO
それを周りに言われるようになってから、起業という独立という意識し始めたという感じですか。
中村隊長
そうですね。10年過ぎて、3年間ぐらいはもんもんとやるべきかどうかという。

 

MATSUMOTO
もんもんの時期もあったんですね。
中村隊長
やっぱり今より法律の改正というのが遅れていたので、簡単に言うと、ものすごくお 金が必要だったんですけど、資金もなかったので。どこかの親会社を見つけて、そこの代理店というか、子会社にならないかぎり、自分が思ったことができなかったんですね。

それだと、独立する意味がないので、もうちょっとなんとかならないかなと思っていたら、たまたま独立する1年前に来年から法律が変わって、第3種というのが生まれたのが、ちょうど起業したときなんですけど、新しい種別ができて。

簡単に言うと、お金そんなに営業保証金というお金を納めるのが、当時は250万。250万じゃないと、やりたいことをやろうと思ったら、7000万の営業資本金が、7000万と思っていてできなかったことが、250万でできるという法改正があったんですよ。それが来年の4月1日から施行されると。

たまたま本屋でぱっと見たページにそれが書いてあったので、もうほんとに運命というか、これは自分のために変わるのかぐらい、なんとう絶妙なタイミングで、来年の4月に独立し、3月か、4月には独立しようと。

 

MATSUMOTO
7000万が250万になったのすごい違いますよね。
中村隊長
夢のような話で、例えば、大きな、例えば、JTBさんだとしたら、JTBさんがやっているものだけを扱う代理店業みたいな、それが新しい種別の3種というのは、JTBさんでも、近畿日本ツーリストさんでも、日本旅行さんでも、全部対等の関係で契約ができるという。1社のそこで親会社の商品しか売れなかったものが、対等の契約でありとあらゆる会社の商品が売れるという、新しい種別だったんですね。

そのときもみんなが同じように、そういうところと契約したんですけど、今のような時代、どんどんどちらかというと子会社を切っていくと、どんどん変わってきちゃいましたけど。その時は、すごく増やす時期だったので、ただ同じように動いてもしょうがないなと思っていたので、自分は一切、日本の旅行会社と契約しないで、全て当時から扱っているトレックアメリカという、イギリスの会社なんですけど。イギリスの本社がありながらの取り扱い地域はアメリカという、アメリカを横断したり、1周したりするツアーを主な主力商品として。

 

MATSUMOTO
それは一番初めの。
中村隊長
初めです。

 

最初は、一人でスタートしたんですか

中村隊長
最初はほんとに一人。起業したらあっという間に5、6人になったんですけど。準備期間というんですかね、1年間は初めて社長のところから離れて。会うと社長と喧嘩ばかりで、向こうからすると口答えをする、言うこともきかない男の子という感じだったんで。女社長だったんですけど。

1年間はまったく違う場所で、ほんとにどのくらいですかね、3畳ぐらいしかないような、トイレもないようなオフィスに追いやられて、分室と呼んでいましたけど。2階の旅行会社にトイレを借りにいくというような、すごい今ではシェアオフィスみたいな 。

なんでほんとにシェアで折半しなきゃいけないんだぐらい、家賃折半っておかしいだろうと。あっちはでかいのに、こんな小さい、ほんとに受け付けみたいなところだけを利用させてもらって。それだけの高額家賃も、これもまた悪いように考えないで、そしたら何倍もこんだけの家賃を払えるということは、この何倍のオフィスを借りても、まだ余裕だなという、そこでまた実験ができたんですよ。たから、1年間はほぼ一人でした。独立するまでの1年間。

 

MATSUMOTO
最初の商品は、順調だった感じなんですか。
中村隊長
今じゃ考えられないんですけど、それもまた、運が良かったとは思うんですけど。たまたま飛び込み営業で、エービーロードって覚えていますかね。

 

MATSUMOTO
エービーロード。
中村隊長
旅行情報誌で一番売れた雑誌があったんですよ当時。リクルートさんがバックにやっている。エービーロードという旅行情報誌、そこの営業の人がたまたま来て、3畳ぐらいの小さなオフィスで、「ここ旅行会社ですかね」みたいな感じで来て。

「どういうことやられているんですか」とかって、お客さんのサンキューレターがどわーっと壁一面に、一人でやっていたので、なんとなく仲間が欲しかったみたいな感覚で、お客さんのサンキューレターがばーっと貼ってあって。

「これは全部、添乗されたんですか」と言われて、「こんなに一人でやっているので添乗していたら、回るわけないし、これはただ手配しているだけですよ」と。

ただ手配しているだけですけど、自分も参加しているので。分かってくれると思う人には、みんなこういうもの書くよねという話になって、そういうことを話してたら、こんなにただ手配しただけで、これだけお客さんから、ありがとうの絵ハガキなり、手紙をもらっていたり、写真もいっぱい送られてきたという会社見たことないですって、感動してくれて。

広告を出したこともない会社なのに、出してくれたんですよね、記事で。ちょっと編集長と掛け合ってきますと、私感動しましたと言ってくれて、「私がまず、やりたいし、もっともっといろんな人に知らしめたいし、もともと雑誌の使命ってそういうことだと思うので、お金出してくれるところだけを出すんじゃなくて、もっと世の中に心から知ってもらいたいという旅行会社って初めてだったので、ちょっと編集長に掛け合って、無料で記事を出してもらえるようにしてみます」というのがきっかけで、ほんとに無料で出してくれて、取り上げてくれたら、行列のできる旅行代理店みたいな感じになって、毎日行列ができていて。

 

MATSUMOTO
すごいですね。
中村隊長
すごいことになりました。雑誌ってこんなにすごいんだという。当時が24万部、雑誌としてはかなり売れていた雑誌なので、それはそれはすごい効果でしたね。

 

年収が月収に

MATSUMOTO
それは、1年過ぎぐらいですか。
中村隊長
1年前、独立起業する1年前ですね。行列ができはじめたのは。

だから、それも本にも書いちゃったんですけど、それも当時、年収200万くらいしかなかったんですよ。それが独立採算制1年間は、俺に全部任せて、売り上げた分は全部自分で給料取っていいと、社長と掛け合って。ちゃんと一筆書いてもらって、支払いの方が圧倒的に多いマイナス何百万の通帳。4、500万マイナスだったと思うんですけど、それを受け取って、やり始めて、年収が月収に変わりました。

 

MATSUMOTO
年収が月収になったと。
中村隊長
エービーロードに載ったら、月収200万くらいに。

 

MATSUMOTO
一気に変わったと。
中村隊長
一気に、死ぬような思いでしたけど、毎日、今のようにパソコンがちょうど導入で、でもこっちはそんなの使いきれていないし、ほとんど記憶力とメモとだけで、何百人というのを毎日毎日扱っていたので。

 

365日働いていました

MATSUMOTO
何歳のころですか。
中村隊長
30代前半ですね。34で独立したから、33のときですね。独立資金も貯まったので、なんせ時間が足りなかったので、まったく遊ばなかったですね。365日多分ほとんど働いていました。

 

MATSUMOTO
1日も休まずに。
中村隊長
休まず。休む暇がないんですよ。忙しすぎて。寝る時間も削っていました。朝早く一人で来て、終電で帰ってみたいな。飲みに行くとか、そんなこともなくて。

 

MATSUMOTO
誘われはするんですか。
中村隊長
当時も結構誘われていましたね。でもほんとに、だんだん向こうも分かってきて、忙しいのが、そういう人も、友達も誘わなくなってきてとか、お客さんも誘わなくなってきてぐらい忙しかったです。

 

ずっと順風満帆だったんですか?

MATSUMOTO
そこからずっと順風満帆にきている感じなんですか。
中村隊長
最初は、旅行情報誌が全盛時代だったので、そこに上手く乗っかったという感じですね。

 

MATSUMOTO
タイミングが良かったと。
中村隊長
情報誌の威力というのは当時は、10万部突破ぐらいの情報誌がいくつもあったので、そこにちょこっと広告を載せると、何十倍も来るみたいな状態が続いたりとか。記事は面白いことをやっていたので、あんまり日本でないツアー。外国人と一緒に、こんなアクティビティがあって、こんな冒険旅行みたいだよみたいな、やっぱり注目のされ方もすごかったし。

今よりもものすごく安かったので、学生がとにかく飛びついて。変な話が、旅行情報誌でお金出して、高いお金出して、広告をしてくれているところがうちの引き立て役みたいな感じになっていました。1週間で出しているパッケージツアーの料金と、うちが1ヶ月で出している旅行料金、現地発着という、中身の部分だけで航空券がないというのもあるんですけど、ぱっと見が、まずそれだけ違いがあったので、そもそも1ヶ月のパッケージ旅行って、当時なかったですからね。「え、1ヶ月でこんなお金で行けるの」みたいな。

 

MATSUMOTO
それは隊長自身がアイデアというか。
中村隊長
それは、もともとそういうのを、自分が入社したときに、現地の旅行会社とタイアップしてやっていたんですね。そこの代理店契約を結んで、ただ、あまりにも時代が早過ぎて、誰も売れなかったものを自分が興味あった、好きになったせいもあるんですけど、売れるようになったんです。最初、経験値がないので、ひたすら当時は電話しまくりました。体験した人に、まずどんなツアーだったかを聞きまくって。

 

MATSUMOTO
リサーチしたというか、お客さんの声を聞いた。
中村隊長
そうです。それをこんなケースもありました、あんなケースもありましたということを、次から次にお客さんに伝えると、それがすごく有益な情報だったりするわけですよ。

今みたいな、パソコンでちょっと検索したら、すぐ答えが出てくるみたいな時代じゃなかったので、その情報がまた自分に役に立ったと思うと、また自分も次の人のために役立ててくださいって、写真も持ってきてくれたり。そうやって常に自分以外の人を喜ばすというか。という人たちが多かったので、自分がすごく役に立ったので、じゃあそこに書いていないやつをまた私もちょっと伝えますねとか、そんないいお客さんばかり次から次へと出てきて。

 

MATSUMOTO
いいお客さんですね。
中村隊長
すごかったですね。多分、その資料という意味では世界一だったと思います。

同じようなツアーでも、英語の心配がないので、他の国では、そんなに情報も集まらなかったと思うんですけど。何せ、日本人くらいなので、英語ができない参加者の中で、少なくとも日本人が一番喋れない人になるわけですよ。

ほとんどネイティブイングリッシュスピーカーか、第二外国語だとしてもドイツ人なんかも英語ペラペラだし、スイス人とか、あの辺のヨーロッパの国の人たちが多かったんですけど、周りの国の言葉全部喋れるみたいな3、4カ国喋れるのが当たり前の中で、英語でなんでそんなにつまっているのみたいな感じだったので、みんな苦労するわけですよ。だから、その苦労が良かったんですよね。

中村隊長
多分、だから、今と時代がちょっと違うのかもしれないんですけど、それから、どんどんどんどん楽な方へ、楽な方へと動いていっちゃったので、ちょっと自分鍛えたいんですとか、どこまでやれるか試してみたいですというような人が多かったですし、情報が溢れていなかったので、どちらかというと、白紙の方がいいみたいな。

自分でいろいろ、ない中で自分がどう動くのかとか、そういう瞬発力というか、判断力とか、そういうとこに自分を追い込んで、もっと自分と向き合いたいみたいな人が多かったので、お客さん自体も真逆というのかな。

でも、そこから有益な情報を自分にとって役に立った情報をもらったから、自分もといういい循環がものすごいできていたので、世界中の写真は集まるし、世界中の情報は集まるし、自分は全然行っていないのに、どんどんどんどん頭でっかちになっていって、完全に頭の中は世界1周しているみたいな感覚になれたのは、全部お客さんからです。

 

地方の人も当時はみんなほとんど成田、関空とかあんなふうに、今みたいに名古屋とか、関空とかなかったので、もう必ず成田経由だったので、ほぼほぼ帰ってくると、親に会う前に自分に会いに来るみたいな感じでした。当時は現地で現像してきて、紙焼きの時代ですよ。

デジタルじゃなかったので、だから、デジカメの前なので、みんなプリントアウト、全部現地でしてきちゃうので、キングサイズになるんですよね。そのキングサイズになっている絵ハガキサイズの写真を、これ全部次の人に役立ててくださいとか、100枚ぐらいとか、200枚とか置いていっちゃう、オフィスに置いていっちゃう人もいて。その一部があそこら辺に今セレクトして、ちょっと飾ってある。

 

MATSUMOTO
これですか。
中村隊長
写真はその一部なんですけど、何千枚ってあって、ちょっと時代があまりにも、ファッションも全然違いますし。あれがあるだけで、こんな笑顔になれるんだとか、こんな場所があるんだとか、とにかくやっぱり情報が今と比べると、格段にないところに情報基地というか、みんなのベースキャンプみたいなイメージで、とにかくあそこ行こうよという。

あそこ行くと元気になるよとか、おもろいおっちゃんいるよとか、そんな感じでどんどん広がっていって。やっぱり学生って口コミすごいなというのは、そのときすごく感じで、一人と喋るときも、その一人の人生変えると思って、喋っていたので。そうすると、その人の後ろにそれこそほんとに学生って、何十人も、何百人もいる学生もいるので。寮の学生、全てがうちのお客さんとか、それくらいすごかったです。あっという間に横の繋がり、縦の繋がり、学生のネットワークすごいなという。

 

地球探検隊という名前はいつから

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MATSUMOTO
そのときから、地球探検隊というのはつけていたんですか。
中村隊長
そうです。会社作るときに、まず、ちょうどインターネットの時代に入ろうとしていて、そういうネット系のシステム開発事業部門みたいなものをやりたいって、たまたま従妹が言っていて、自分は旅行業務をやりたい。

どっちも共通するのって、インターネットエクスプローラーもあるしというので、エクスプローラーという探検家という意味の英語なんですけど、エクスプローラー、共通のあれだから、エクスプローラーにしようという。

なんか地球探検隊っていうのも降りてきたので、ブランド名でもなんでもいいから、地球探検隊って今でいう、副称号というので登録されているんですけど。うちとしてはブランド名が地球探検隊で、会社名は、株式会社エクスプローラーという、探検家という意味の会社。人生は冒険だよねという会社を作りたいという。

 

MATSUMOTO
今まで結構、いろんな商品とかは作ってこられた感じですか。
中村隊長
トラックアメリカという商品だけで、50コース以上あるので、面白かったですよね。

一つの会社とタイアップすると、世界中の商品が扱えるみたいな状況だったので、そこからやっぱり紹介、紹介でどんどん増えていって、世界中のツアーを現地集合解散型の外国人と一緒に行く英語ツアーを世界中やれる会社にすぐなって、最初はアメリカだけだったんですけど。

 

MATSUMOTO
当たらないものもあるわけですか。
中村隊長
面白いなと思ったのは、例えば、自分が興味を持ったもの、当然出るので、表現にも出るし、顔にも出るしとか。スタッフが興味持ったとこが売れるものになり、あまりスタッフが興味持っていない、自分も興味持っていないものは、やっぱり売れないものになっていっているという。

さっき言ったように、やっぱり情報が今よりも全然少なかったので、地球の歩き方とかも、あんなに今みたいに細分化されていないような。アメリカなら、アメリカという1冊しかないような時代だったので、ほとんど情報が限られた情報しかなかった時代なので。

 

軌道に乗ったのは何年目から

MATSUMOTO
軌道に乗ったのは、だいたい何年目ぐらいからですか。
中村隊長
最初から軌道に乗っちゃったという、たまたまなんですけど、情報誌にたまたまアメリカ商務省観光局がお金出してくれたアメリカの雑誌が起業して2週間後に出版されたので、そこに5ページカラーで載ったんですけど、そこから大ブレークだったので、いきなり軌道に乗っちゃいました。起業した2週間後に資料が間に合わないというくらい、問い合わせが殺到してしまい。

 

20年間苦労はない

MATSUMOTO
あんまり20年間苦労はない感じですか。
中村隊長
いや、最初だけですね。

 

MATSUMOTO
最初だけですか。
中村隊長
何も考えないで、そのとき考えていたことは、これだけ人が来ちゃうと、どうしても一人一人のサービスの質が落ちてしまう。

だから、それをどれだけ人が来ても、できるだけサービスの質を落とさないように、一人ひとりとにかく、一人ひとりとちゃんと向き合って、Face to Faceでやっていくというのが、地球探検隊の社風なので、それを目指していこうと言って、あまりにも人がきすぎて、どうしても、おろそかになっちゃう。

でも、自分の家族だとか、自分の彼女だとか、彼氏だと思って、一人ひとりと接してねという、そしたら、今言ったこと言えないよねとか、そんな感じで、忙しくなると、どんどん人間ほんとにまさに心を無くしていくというか、忙殺されていくという感覚になっちゃうので、それが一番の悩みでした。それぐらい来ていました。

 

苦労話は?

MATSUMOTO
苦労話から結構勇気づけられるとか、結構あったりすると思いますので。
中村隊長
当たり前ですけど、順風満帆なわけがなくて、苦労話圧倒的に多いので。

まず雑誌っていうのが、いきなり起業して4年後にほぼほぼなくなっていくんですよ。面白いもので、1誌無くなると、休刊という名の廃刊始めるわけですよ。これは怖かったですね。

初めてそのときに気付いたわけですよ。自分が営業力があると思って、それまではやってきたけれども、話すたびに、どんどん申し込んでしまうということがずっと起きていたので、誰がここ玄関までお客さんを運んでいるのと言ったときに、完全に雑誌だったわけですよ。雑誌が偉かったわけで、自分が偉くなかったわけですよね。その雑誌が連れてきていたものがなくなったというときの。

 

100万広告費出したら、何千万みたいな世界

MATSUMOTO
まさか雑誌が休刊とか考えていなかった。
中村隊長
考えていなかったですから、100万例えば、広告費出したら、何千万みたいになるみたいな。

アホみたいな時代が、3年・4年続いたので、あまりにも順風だったので。それがなくなっちゃうというのは、当然なくなるには、広告主が減っていくということなので、やっぱり雑誌がだんだん売れなくなってきたんですね。

みんな分かると思うんですけど、インターネットの時代になってきたわけですよね。そうすると、雑誌が紙媒体がどんどん売れなくなってきて、広告主も効果がなくなれば、どんどん減っていくので。そして、雑誌がなくなっていくという、うちもどんどん広告費が減っていって、お客さんも減っていくというのは、当然、1年前くらいからあったので。でも、ほんとにそれでも、他の会社よりはやっぱり雑誌でお客さん来ていたので、やっぱりその最初からずっと他の会社がうちの引き立て役みたいなのは、しばらく続いていましたから、一応上手くいっていたんですけど。

 

MATSUMOTO
全てなくなったんですか。
中村隊長
全てなくなりました。今残っている雑誌、旅行関係の雑誌ないんじゃないんですかね。

 

MATSUMOTO
そこからやばいと思って。
中村隊長
まず、1年前、やばいそろそろ雑誌側も考えるんですよ。広告主を待っていたら、どうにもならない。

その半年ぐらいかな、前から、いわゆる、出来高制という。小さい会社がいきなりまた相当な投資をして回収するには、時間がかかるだろうし、それを大手のようにはできないだろう。でも、小さくても大事にしたい会社があるから、その筆頭はうちにとっては、地球探検隊なんだよと言ってくれた、雑誌のある雑誌の社長さんが言ってくれて。

うちがモニターになったんですけど、つまり、後払いでいい。うちの出した広告で、お客さんが一人行ったら、一人いくらという広告費で、後からもらえばいいから、定額でもらえばいいからという契約を結んで、ものすごい効果が出たんですよ。

 

当たり前ですけど、カラーページで絶対出せない、普通のお客さんから見たら、数千万という広告費を出しているかのように、でも、ゼロなんですよ。

10ページ、20ページ、カラーで出してくれて、編集はそのかわり一切向こうに任せて、編集者の方に任せ、雑誌社の方に任せ、写真と記事をこっちが出すだけ、向こうから言われた国とか、都市が入っているやつ。やっていて、大成功したので、それをうち1社から70社に増やした途端に、みんな苦しいんで嘘の申告をするわけですよね。

 

MATSUMOTO
嘘の申告。
中村隊長
全然効果なかったよとか、一つの雑誌社は消えました。

うちだけが多分正直に申告していたし、うちは単純に商品力もあったんだろうなと思います。やっぱり他にはない力というか。やっぱり外国人と行くっていうのが、それなりに大変なんだけどそれだからこそ、そこに成長と学びがあるよねという。

やっぱり冒険=旅=人生みたいな感覚でやっていたので、すごくそこでみんなどういうとこが良かったかというのも、ほんとにフィードバックしてくれたので。単に楽しいよというだけじゃなくて、こんな苦労があったからこんな楽しかったんだよみたいな。

ほんとに映画のようなシナリオが、どんどんどんどん普通に、ほんとに嘘のような事実がいっぱい起きて、それがどんどん記事になっていくという。そのまたストーリー性にみんなもまた共感してくれてという。まったく旅行商品を旅行商品として売っている感じではなかったので、そこも差別化できて独自化路線でずっと進めていた。だから、他が駄目になっていても売れていたというとこもあったんですけど。

 

【IDEAストーリー】第4回:日本で唯一「旅行」を扱わない旅行会社/後編

 

 

株式会社エクスプローラ「地球探検隊」 代表取締役隊長 中村 伸一

日本で唯一、「旅行」ではなく「旅」を扱う。旅のコンセプトは「世界を遊び場に仲間を作ろう!」で【大人の修学旅行】など大手旅行会社と差別化したユニークな企画で多くのリピーター客を掴んでいる。